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エスペラントの創始者ザメンホフ博士は、言葉をひとつにして民族間の争いの種を減らそうとした。言葉だけが民族の争いの種でないことは彼は承知だった。これは私が不勉強なのだがエスペラントの揺籃期に言語権という発想はあったのだろうか。あったような気がする。戦争など人間が人間に対する抑圧を行ってなおエスペラントは生き残っている。
私は海外文通と言う手段で国際交流をしているつもりだが、実際に戦争などの犠牲者(広義の)に援助の手を差し伸べている人もいる。エスペラントを使ってさまざまな国際交流になんであれかかわることは大切だと思う。日本を知ってもらうことでもいいのだ。そして大国でない国の文化を知っておくことも大切だ。
日本語では短歌や川柳を書くことで、この世の中の悲哀や矛盾などを、アジテーションするのではなく静かに語りたい。先天性障害を持った歌人や川柳作家はほとんどいないに等しいから、パイオニアともいえる。
私が筋力トレーニングのため障害者スポーツセンターと言う施設へ行こうとしているとき、駅で視覚障害の男の人と一緒になったことがある。さりげなく見ながらエスカレータを上がっていると、後ろから「めくらや」と言う声がした。その声に排除の気持ちがあったようなのでじろっと見た。その人は「視覚障害者や」とぼそぼそ言った。めくらといわれたら多少傷つくが、心根に排除や蔑みがないのなら言い換えなくてもわかると思う。