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踊りの人

ある近所の人は「あんたは若くて着物を着とらっせるがいいねえ、わしゃあ齢だでかんわ。踊りの人かね」
このあたりでは着物を着ていると踊りのひとだと思われる。大須あたりでは着物屋があるし、若くても着物を着る人がうろついているので、やれ帯が緩んでる、やれおはしょりがどうの、と道行くおばさんがおせっかいを焼いてピンチをしのいでくれる。

作業所に着物で行ったら「なんかあるの?」女装の山ちゃんは認知されているのにな。

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エレクトーン2

三年生のときに揖斐に引っ越して、そこで教室を変えた。三年生までで子供用のカリキュラムは終わっていたので後は大人用の教本をひいていた。五六年となるともはや音大受験準備に近い向きがあって楽典(音楽の法則)なども習うようになっていた。

私は将来エレクトーンの先生になろうと思っていた。エレクトーンをひくのが好きだからである。両親は普通の先生のほうがいいとしきりに反対するのだ。どうあっても望みはかないそうにないし、中学に入る時点でエレクトーンはやめにした。最後のレッスンは泣いてしまってできないくらいだった。なぜなれないのかというと障害の問題があった。親は障害があることは知らなかったが、自分の子供がひどく手足が不器用なことは知っていた。あとお金の問題があった。子供には言いたくない理由である。頭はいい子供だったのでそちらのほうが結局いいと思ったのだ。

さてこれより前後するがひさかちゃんという一学年上の女の子がいた。学校の授業を終えてレッスンになるまで待ち時間があったので、宿題をしたりおしゃべりをしたりしていた。おとなしい女の子で、一学年下だからといって私をばかにすることもなかったし、なんとなく子供から少女へと変わりつつある子供の静けさがあった。私はまだ幼稚園にある遊具で遊びたい気分があるくらいだからおして知るべしだ。

五年生に発表会で大垣に行くことになった。私とひさかちゃん、普段はピアノを引いている五年生の子、もう一人誰かで合奏するのだった。曲は真珠とり。

大人になって知るのだがこのころ私たちが弾いていた曲は映画音楽やポップスだった。中島みゆきの時代をひいたこともある。ともかく大人の聴く音楽で、小学生には敷居が高いというか全くわからない音楽だったが何とか表情をつけねばならぬ。先生も子供にわかるような言葉で説明するのにずいぶん苦労されたはずだ。
とにかくがんばった。指使いが難しくて指がこんがらかってもめげなかった。

あのときの曲は今でも思い出すことができるがひくことは困難かもしれない。写真を見たら私たちはもう大きい子で私たちの後は音大受験を目指すお姉さんたちしかいなかった。

エレクトーン

エレクトーンとは電子オルガンの一種で、四歳から十二歳まで習っていた。両手に鍵盤があり、左足にも鍵盤があった。右足は音量を変えたりリズムがなるボタンを操作するものがあった。一年生、六歳の時には発表会や昇級テストに行った。発表会だからさぞかわいく着飾っているかと思うが、全くの普段着。夏だったのでノースリーブにキャラクター物のズックを履いていた。エレクトーンのほうが私より大きいので、私はしがみつくように演奏していた。私はその発表会が初めてなので小さいこの部類に入るが、大きな子はきれいに着飾ってものなれた風に難しい曲を弾いていた。素敵だなあ、ああなりたいなあと思った、素直である。

昇級テストは緊張しまくりだった。課題曲と自由曲はよくよく練習してあったが、初見といっていきなり楽譜を見てそれにアレンジをつけてひくものや、コードの名前を言われてすぐひくものもあった。終わったときは力が抜けて座り込みそうだった。終わったなあ、大丈夫や、などと父母に言われながら町を歩いていると

君とよくこの店へ来たものだ

片隅で聞いていたボブディラン

という歌が聞こえてきた。いい歌であると子供のくせに思った。こういうのは大人の曲だと思った。なぜか親は同意しなかった。

高瀬さんのこと2・永井さんのこと1

そしてその夏の名古屋での夏季集会(というのがある)に参加した。姉貴分がお前一人で宿を取るのは難しかろう、かといって会の側で用意している宿は高かろう、ここで待ってろといわれたホテルでまっているが待てど暮らせど彼女は来ない。家出少女に間違われていろいろ質問されるしもういや、というところへ「やあ、たこ焼き食うか?」

あほな姉貴はおいておいて、次の歌会では高瀬さんと永井陽子さんに会った。別に二人しかいないわけではないのだが、たくさんいすぎて覚えたのがこの二人だったというわけ。高瀬さんはいったいいくつなのか、定年過ぎてるのか、塩辛声というのはこういう声のことかと思った。高瀬さんは忙しそうだった。永井さんはおかっぱが長くなった感じの髪であまり肉感のない声で「でもそれって…でしょう?」と反論に精を出していた。

この歌会では高得点者に景品が出た。最後の最後で私が呼ばれた。本来なら時点だからもらえないのだが、まだ未成年だしがんばってやってきたのだからと永井さんが店を駆け回って探してきたものだった。瀬戸焼のイカの風鈴だった。わーいで住めばいいのだが風鈴は私の苦手なもののトップの品で風鈴がなると発狂状態に近くなる有様だった。風鈴は封印されたままミシンの中にしまわれた。

おばあさんの反応

というか大げさな反応をするのがおばあさんなので。(子供はまるで怪獣を見たような顔をするが、着物を見たことがないのかもしれない)

「あれあれあれ、ふぉふぉふぉ」

「ええきものをきとりゃあすなも、あつくないかね」

いやそのこれは化繊だから三千円なのでして、そんなにいいものではありません。しかし、ふぉっふぉっはどういう意味か。



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