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三年生のときに揖斐に引っ越して、そこで教室を変えた。三年生までで子供用のカリキュラムは終わっていたので後は大人用の教本をひいていた。五六年となるともはや音大受験準備に近い向きがあって楽典(音楽の法則)なども習うようになっていた。
私は将来エレクトーンの先生になろうと思っていた。エレクトーンをひくのが好きだからである。両親は普通の先生のほうがいいとしきりに反対するのだ。どうあっても望みはかないそうにないし、中学に入る時点でエレクトーンはやめにした。最後のレッスンは泣いてしまってできないくらいだった。なぜなれないのかというと障害の問題があった。親は障害があることは知らなかったが、自分の子供がひどく手足が不器用なことは知っていた。あとお金の問題があった。子供には言いたくない理由である。頭はいい子供だったのでそちらのほうが結局いいと思ったのだ。
さてこれより前後するがひさかちゃんという一学年上の女の子がいた。学校の授業を終えてレッスンになるまで待ち時間があったので、宿題をしたりおしゃべりをしたりしていた。おとなしい女の子で、一学年下だからといって私をばかにすることもなかったし、なんとなく子供から少女へと変わりつつある子供の静けさがあった。私はまだ幼稚園にある遊具で遊びたい気分があるくらいだからおして知るべしだ。
五年生に発表会で大垣に行くことになった。私とひさかちゃん、普段はピアノを引いている五年生の子、もう一人誰かで合奏するのだった。曲は真珠とり。
大人になって知るのだがこのころ私たちが弾いていた曲は映画音楽やポップスだった。中島みゆきの時代をひいたこともある。ともかく大人の聴く音楽で、小学生には敷居が高いというか全くわからない音楽だったが何とか表情をつけねばならぬ。先生も子供にわかるような言葉で説明するのにずいぶん苦労されたはずだ。
とにかくがんばった。指使いが難しくて指がこんがらかってもめげなかった。
あのときの曲は今でも思い出すことができるがひくことは困難かもしれない。写真を見たら私たちはもう大きい子で私たちの後は音大受験を目指すお姉さんたちしかいなかった。