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こういう曲を聴くとなぜか心騒ぎ、むやみに走りたくなるのは運動会のせいだと思う。「天国と地獄」を聞いてフレンチカンカンを踊ってみたことがあるが、親にものすごい勢いでそのようなエッチな踊りをしてはいけないと怒られた。小学校二年生に何を期待しているのだろう、なんか活動的になって踊ってみただけだが。
今日は風邪で頭とのどが痛い上に左足が痛いので横になろうと思う。
それは私が小三のときだった。人生ゲームという競技で私は父を負ぶって百メートル移動した。まずは父ないしは母が子を負ぶって走る。次は手をつないで走る。最後が親を負ぶって走る、そういう競技なのだ。
父はその日の四百メートル走で中学の体育教師とトップを競り合った。体格は中肉中背である。一方私は走ることにかけてはすべてをあきらめられている。体格は三年生でも一年生並みでしかない。父は私を負ぶってトップを独走した。手をつなぐところも私は宙を飛んでいるかのようだった。二位との差は歴然。さて私は父を負ぶった。ぐえっ。歩いているというより、父の重みでよろめくことが結果的に移動していることになるという悲惨な移動である。私は心の中で歌った。「おもいーこんだらしれんのみちをーゆくがーおとこのーどこんーじょーおー」父は口も利けない。
これはどの子にも試練の道であったようで私は結局三位だった。それまでにぎやかだった外野もシーンとしてしまい、「小学校三年ではおやは負ぶえない」という事実が明らかになったその一瞬だった。
三年生のときに揖斐に引っ越して、そこで教室を変えた。三年生までで子供用のカリキュラムは終わっていたので後は大人用の教本をひいていた。五六年となるともはや音大受験準備に近い向きがあって楽典(音楽の法則)なども習うようになっていた。
私は将来エレクトーンの先生になろうと思っていた。エレクトーンをひくのが好きだからである。両親は普通の先生のほうがいいとしきりに反対するのだ。どうあっても望みはかないそうにないし、中学に入る時点でエレクトーンはやめにした。最後のレッスンは泣いてしまってできないくらいだった。なぜなれないのかというと障害の問題があった。親は障害があることは知らなかったが、自分の子供がひどく手足が不器用なことは知っていた。あとお金の問題があった。子供には言いたくない理由である。頭はいい子供だったのでそちらのほうが結局いいと思ったのだ。
さてこれより前後するがひさかちゃんという一学年上の女の子がいた。学校の授業を終えてレッスンになるまで待ち時間があったので、宿題をしたりおしゃべりをしたりしていた。おとなしい女の子で、一学年下だからといって私をばかにすることもなかったし、なんとなく子供から少女へと変わりつつある子供の静けさがあった。私はまだ幼稚園にある遊具で遊びたい気分があるくらいだからおして知るべしだ。
五年生に発表会で大垣に行くことになった。私とひさかちゃん、普段はピアノを引いている五年生の子、もう一人誰かで合奏するのだった。曲は真珠とり。
大人になって知るのだがこのころ私たちが弾いていた曲は映画音楽やポップスだった。中島みゆきの時代をひいたこともある。ともかく大人の聴く音楽で、小学生には敷居が高いというか全くわからない音楽だったが何とか表情をつけねばならぬ。先生も子供にわかるような言葉で説明するのにずいぶん苦労されたはずだ。
とにかくがんばった。指使いが難しくて指がこんがらかってもめげなかった。
あのときの曲は今でも思い出すことができるがひくことは困難かもしれない。写真を見たら私たちはもう大きい子で私たちの後は音大受験を目指すお姉さんたちしかいなかった。
エレクトーンとは電子オルガンの一種で、四歳から十二歳まで習っていた。両手に鍵盤があり、左足にも鍵盤があった。右足は音量を変えたりリズムがなるボタンを操作するものがあった。一年生、六歳の時には発表会や昇級テストに行った。発表会だからさぞかわいく着飾っているかと思うが、全くの普段着。夏だったのでノースリーブにキャラクター物のズックを履いていた。エレクトーンのほうが私より大きいので、私はしがみつくように演奏していた。私はその発表会が初めてなので小さいこの部類に入るが、大きな子はきれいに着飾ってものなれた風に難しい曲を弾いていた。素敵だなあ、ああなりたいなあと思った、素直である。
昇級テストは緊張しまくりだった。課題曲と自由曲はよくよく練習してあったが、初見といっていきなり楽譜を見てそれにアレンジをつけてひくものや、コードの名前を言われてすぐひくものもあった。終わったときは力が抜けて座り込みそうだった。終わったなあ、大丈夫や、などと父母に言われながら町を歩いていると
君とよくこの店へ来たものだ
片隅で聞いていたボブディラン
という歌が聞こえてきた。いい歌であると子供のくせに思った。こういうのは大人の曲だと思った。なぜか親は同意しなかった。
私が中二、妹が小三まではお互いに背が小さくて均衡が取れていた。ところが妹は小四の一年間で十六センチ背が伸びた。驚き桃の木さんしょの木、などといっているうちに母と私の背を抜いて父に相対するくらいになった。それでも小学生なので顔がこどもっぽい。しかしながら私の顔もこどもっぽい。そのままどんどん行って高校生になるころにはどちらが姉か妹か見分けがつかずよく間違えられた。お寺の住職には必ず間違えられて私はいやになったが、説明する親もいやであったろう。それでも未婚のころはまだよかったのだ。
いまや二児の母である妹はげっそりとやせてしわがよっていると聞く。私は実年齢より十は若く見られる。